
現代に問われる生存のリアリズム
イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相による最近の変節は、宗教的なタブーに触れただけでなく、現代社会が目を背け続けてきた冷徹な真実を突きつけました。キリスト教の始祖イエス・キリストをモンゴル帝国の創始者チンギスハンと比較し、歴史の文脈において「劣る」と断じたその発言は、単なる失言ではなく、国際政治学における「リアリズム(現実主義)」の極致を象徴しています。
ネタニヤフ氏が歴史家ウィル・デュラントを引用して主張したのは、「Right without might is powerless in the face of evil(力なき正義は悪の前で無力である)」という地政学的な断理です。本稿では、この言葉の重みを、いわゆる「左翼リベラル平和主義」の非現実性と対比させながら、アジアや欧州の情勢に即して深掘りします。
「道徳」という盾の脆さ
ネタニヤフ氏の論理によれば、どれほど道徳的に優れた文明や高潔な理想であっても、それを物理的に保護する「力」がなければ、冷酷な侵略者の前では砂上の楼閣に過ぎません。キリストが説いた愛と非暴力は精神的な支柱にはなり得ますが、目前に迫る弾道ミサイルやテロを止めることはできないという、あまりに実務的な指摘です。
これは、理想主義を掲げるリベラル平和主義への強烈なアンチテーゼでもあります。リベラル派はしばしば「対話と相互理解」を万能薬のように説きますが、それは「相手もまた対話に応じる理性的な存在である」という楽観的な前提に基づいています。しかし、歴史が証明するように、チンギスハンのような「力こそが正義」を信奉する勢力にとって、対話を求める声は単なる「弱さの露呈」にしか映りません。
リベラル平和主義の「非現実性」と「フリーライダー」の構造
左翼リベラル平和主義が「非現実的」と批判される最大の理由は、国際社会が中央政府を持たない「アナーキー(無政府状態)」であるという基本認識を欠いている点にあります。国内社会であれば、警察という「力」が法(正義)を守りますが、国際舞台では自国の安全を保障する最終的な手段は自らの武力、あるいは同盟国の武力しかありません。
欧州の衝撃:長年、ロシアとの経済的対話による平和を信じてきた欧州諸国は、ウクライナ侵攻によってその幻想を打ち砕かれました。ドイツが国防方針を劇的に転換し、北欧諸国がNATOに加盟したのは、まさに「力なき正義(中立や非核)」が無力であることを痛感したからです。
アジアの現状:南シナ海における法の支配を無視した埋め立てや、台湾海峡における軍事的威圧に対し、リベラルな規範は目立った成果を上げていません。法や正義を執行するための「強制力」が伴わない限り、侵略者は既成事実を積み重ねることを止めないのです。
結局のところ、リベラル平和主義を声高に叫べるのは、その背後に米軍のような圧倒的な軍事力が存在し、秩序を維持しているという「安全な場所」からのみ可能です。これは安全保障における「フリーライダー(ただ乗り)」であり、自国が直接の脅威に晒されている当事者にとっては、生存を放棄せよと言われているに等しいのです。
「正義」と「力」の結合という難題
もちろん、ネタニヤフ氏の論理を無批判に受け入れることは、弱肉強食の野蛮な時代への逆行を意味します。哲学者パスカルが説いたように、力なき正義が無力である一方で、「正義なき力は暴力」です。力を正義の裏付けとするならば、その力がいかにして正当化され、抑制されるべきかという問いがセットでなければなりません。
ネタニヤフ氏は、イランへの攻撃を「全世界を守るための最善手」と正当化しました。しかし、その「力」の行使がさらなる憎しみを呼び、新たな「悪」を生み出す悪循環に陥っていないかという懸念は、アイザック牧師ら批判者が指摘する通りです。
問われる日本の「覚悟」
「力なき正義は悪の前で無力である」という言葉は、私たち日本にとっても他人事ではありません。周辺諸国の核武装や現状変更の試みが常態化する中、対話や規範だけに頼る平和主義がいかに危ういバランスの上に立っているかを自覚する必要があります。
真の平和を望むのであれば、私たちは理想を語る言葉を磨くと同時に、その言葉を現実に守り抜くための「力」を、どのような形で、どの程度保持すべきかという冷徹な議論から逃げるべきではないでしょう。チンギスハンの冷酷さとキリストの倫理が交錯する現代において、私たちは「生存」と「道徳」の極めて細い糸の上を歩んでいるのです。

